トールファームでの酪農から
比婆肉販売へ。
比婆肉本舗へのホンネと夢。

代表取締役・田川吉男

イヤでした。子どもの頃は、とにかく家の環境がいやでいやでしかたがなかったんです。 朝は、4時起きです。それが1年365日ですから。休みもなく、毎日毎日、牧場の仕事、牛の世話などがありますから。旅行にも行けません。どうにかやりくりしてたまに家族旅行に行くといっても、せいぜい日帰りです。どこかへ行っても宿泊することはなく、夜には家に帰って仕事です。それが唯一の旅行休み。そんな生活でした。
小学生のときのことです。月曜日になるとクラスの友だちが、土日にどこへ行った、あそこへ行ったという話題になるんです。ですが、私の場合は土日の区別はありませんでした。土曜日、日曜日は休みではなく、家の仕事を手伝う日。それがあたりまえでした。やることがない、と思われると家の仕事を手伝わされましたから、今日は友だちの遊びに行くからとか、行事があるから、と言っては逃げていましたね。
牧場での仕事というのは、いくらでもあるんです。牛舎の清掃、敷き藁の交換、飼槽の掃除などに始まり、牧草地の石拾いとかもありますね。
トールファームでは乳牛を飼育して搾乳し、生乳を生産しています。一見、単純作業のように見えますが、そこには奥深いノウハウがあります。そのノウハウのひとつひとつはひじょうに細かい作業やプロセスの積み重ねなんですね。だから、人間がそのすべてに対処しようとすると、とてつもなくめんどくさいことばっかりなんです。でも親に言われて手伝うのは、子どもにとってはあたりまえのことでしたから、しかたがないと思っていました。

車と引き換えに大学入学

 

高校へ行くというときも、酪農を学ぶ学校へ行きました。高校を卒業してどうするか、というとき父親と話したんです。就職するのか、しないのか、と。そのとき大学へ行けと父に言われたんですね。でも、自分はさほど興味がなかったんです。ですが、大学へ行くんだったら、好きなものを買ってやると言われましてね。じゃあ、車を買ってくれ、と。私は、乗り物が好きでしたから、ダメもとで交換条件を出してみたんです。そうしたら、買ってくれることになりまして。機械ものをはじめ、何かを作る、というのが好きで、将来は建築設計のような仕事をしたいと、なんとなく考えていましたね。

農業技術大学校へ入学し、買ってもらった車で大学へ行っていましたよ。当時350万円くらいする車でしたから、教授には、学生が乗るような車じゃない、と言われましたけどね(笑)。最初の2年間は、親にローンを支払ってもらい、残りは自分で支払いました。

大学に行くなら、ということで父は私に牛の人工授精の免許、つまり家畜人工授精師の国家資格を、大学在学中に取得させたかったようでした。でも、そのとき私は、牧場関連のことには関心がなかったんです。

大学を卒業する頃になって、自分のやりたいことをやりたいと強く思い始めました。

卒業後すぐに家の仕事を継ぐということは、365日、牛の世話をしながら生きていくということ。それがどうしても受け入れられなかった。それよりも、設計・建築という仕事をしてみたい。やりたいと思ったことを体験したいという気持ちが強かったので、家業を継ぐという選択はせず、ここ庄原市を出て広島市へ行く決心をしました。

自分が選んだ建築関連の仕事で
見えたもの

縁あって広島市にある小さな建築会社に就職しました。全社員が5~6名ほどの零細企業です。そこで現場監督の仕事をやり始めました。当時、イタリアンレストランの設計、建築の仕事をまかされまして。その打ち合わせや作業が楽しかった。レストランの営業や周囲との兼ね合いで、工事は夜8時に開始するといった仕事でした。

現場監督という仕事は、設計通りに進んでいるか、職人への指示など管理業務が中心ですから、わりとヒマがあるんですね。そういうときに職人さんたちと一緒になって壁にクロスを貼るのをてご(手伝ったり)したりしていました。すると、職人さんたちから「あんた、いい現場監督になれるよ」とか言われたりしてうれしかったですね。

ですが、夜の仕事ですから家に帰るのが遅くなります。当時、結婚して子どももいましたから。仕事とはいえ、子どもが起きている時間に父親のいることが少ない、いない、という現実がありました。そのことを周囲から心配され、昼間の仕事にするために転職しました。

転職した先も建築関連の仕事でした。ですが、ここでの仕事を半年やって、将来が不安になってきたんです。

1日12000円の日給をもらって月給30万円。食事もつくので月に35万円を稼ぐことができます。しかし、日給月給の仕事ですから雨が降れば仕事はなく、その分の給与は支給されません。そんな不安定ななかで家賃、生活費を除いて残った金額を見たとき、自分の将来が見えてしまったんです。仕事は楽しかったけれど、自分の限界が見えてしまった。すると、とたんに仕事への興味を失ってしまいました。楽しいけれど、こんなことを仕事にしていても夢がない。自分が稼げる金額がはっきりしてしまったいま、もっと稼ぐにはどうしたらいいのか。そうして得た結論が、社長になるということでした。

社長になることを決意して

社長になると決めて、何をやるのかと考えたとき、いろいろ考えた末に残ったのは、家の仕事を継ぐ、ということでした。あれだけいやだった酪農の仕事をしていくことが、社長になるための最短距離だと気がついたわけです。

家に戻ると決めたときと前後して、父が倒れて祖母が牧場の仕事をしていました。1カ月ほど、見よう見まねで酪農の仕事をし始めていろいろなことに気がつきました。面倒な仕事がたくさんあるのですが、ムダが多い。こうすれば効率的だ、といったようなことをたくさん見つけたんですね。

私はものごとのしくみを考えるのが好きで、効率性を追求することを考えてしまうんです。たとえば、2台のバイクを分解して、いいところだけを組み合わせて1台のバイクにしてしまうといったようなことをやりました。あれこれ考えて新しい仕組みや流れを作っていくのが好きだったんです。

そんなようなことで、当時の酪農のあり方を少しずつ変えていきました。それによって、酪農の仕事のあり方にも改革を試みるようになりましたね。

1995年にトールファームを創業して社長に就任しました。その後、牧場における就労のあり方を変えるために、つまり365日、休みなしという体制を変えたいと思ったわけです。それで、義弟に入ってもらい交代制で休みをとるということにしました。こうして、業務管理や効率化を進めて業績を伸ばしていったのです。

オフは徹底して遊んでストレス解消ができるようになりましたね。いまは、休みの日はジェットスキーを楽しんでいます。一人ではできませんから、あらかじめ仲間と連絡してグループで行きますね。海に出ると解放感があります。さまざまな風景が見られます。それが楽しいし、ストレス解消になっていますね。

乳牛1000頭体制をめざして

酪農という仕事は、安定していて景気に左右されにくいビジネスです。それにやった分だけ利益が見込めますから、見通しが立てやすいところが利点です。これからもより高みをめざして、ゆくゆくは、乳牛1000頭体制を目標に……と考えていましたが、生産調整や飼料高騰などで、規模拡大の夢は断念しました。゜

酪農をめざしたいという人にアドバイスをするなら、とにかくがんばるということです。そして自分が経営者になるか、従業員になるか、ということを意識して、決めたなら覚悟してのぞむほうがいいでしょうね。経営者になるんだ、という覚悟があればがんばれますし、自分の将来も想像しやすくなると思います。

(たがわ よしお 2024年5月インタビュー)

 
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